ブログ、しばらく休稿いたします

ブログ「植ブツ画DEブツブツ」は、しばらく休稿いたします。無期限……つまり、コロナの終息を見るまでです。

コロナのワクチン接種のニュースもちらほら届くようにはなりましたが、まだ外国の話で、日本の場合はいつごろになるんでしょう。来年の初夏……などの予想も飛び交っていますが、皆様どうぞお大事に。

投稿は休止しますが、ブログの古い、ふる~い原稿(2013年7月以降)などは、お役立ていただいけるものも少なからずあるかと思いますので、そちらは今後ともよろしくお願い申し上げます。  勝 治 誠

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名曲・平城山(ならやま)

「万葉集」ではありません。今回は、現代歌曲と「古事記」(!)のコラボです。これ、名曲です。え? 過去の記事との一貫性?……継続性? ボク……そういうのが苦手なんです。いえ、いえいえいえ、すぐまた戻ります「万葉集」に、たぶん、きっと。

まず歌詞。「①人恋うは悲しきものと平城山に もとおり来つつ耐えがたかりき ②古(いにしえ)も妻に恋いつつ越えしとう(そういう話だ)平城山の径に 涙落としぬ」。現代歌人北見志保子の作品二首が使われています。作曲は平井康三郎。

ここからがすごい。志保子の夫・橋田東聲も歌人で、弟子を抱えていた。そこで、妻・志保子は夫の許に通う弟子のひとり浜忠次郎に熱烈な恋をするのです。浜は、後に千代田生命保険の社長になる人で、志保子より十二歳年下!でした。与謝野晶子などのことも思い合せると、日本の女流歌人は情が激しいでしょうか。周辺は燃え上がった二人を心配し、浜をフランスに送り出します。歌詞の①は、このころのことと想定されるようです。

ところが遠く離されてもほとぼりは冷めず、それどころか想いはさらに激しさを増します。浜が渡仏中、橋田夫妻は協議を重ね、結局離婚に至り、志保子は帰国した浜と結婚します。

ところでこの結婚に際して、志保子はもう一つものすごいことを仕出かすのです。彼女は明治十八年生まれですが、村の戸籍係に頼み込んで、「十」の上に「二」を書き足し、「明治二十八年生まれ」に改竄(かいざん)するのです。ウソのようですが、資料にはそう書いてあります。これにより、新郎より十二歳年上の自己をわずか二歳年上と偽ることに成功ました。

ところで、②の歌中の「いにしえ」とは、古事記に見える西暦500年のころです。仁徳天皇は嫉妬深い妻・盤之命が紀ノ國に旅している留守に、遠縁の八田皇女を宮中に迎えた。これを知った盤之命は激怒し、夫の許には帰らないまま実家に新宮を建てて引き籠りました。夫・仁徳天皇は自ら妻を訪れて説得も試みましたが妻は応じません。これが歌詞の②に想定されるのでしょうが、当時、「夫」と書き「妻」と書いて双方ともに「つま」と読ませたことも絡み、「ツマに恋つつ越えたと伝わる……」の部分が、夫が妻を慕ったのか、妻が夫を慕ったのかが曖昧に思え、解釈も混乱しているようです。

とにかく妻は夫の説得に応じることはなく、生涯をそこで終えます。その没後、妾の八田皇女はようやく皇后になったのです。

もう一つお伝えしたいことがあります。この歌はとにかく美しい。「ほかに比べるものもない名曲」という表現も、ネットの投稿にありました。ボクも同じ感想を持つものですが、その理由としてもう一つ、作曲の形式が挙げられるそうです。

作曲は明治以降、つまり現代なのですが、使われている形は平安・鎌倉期に流行った「今様(いまよう)」、つまり当時の視点で見た「現代風=その当時風の調べ」であり、宮廷に伝わる雅楽などに雰囲気が伝えられているものです。具体的に言えば、現代の曲のように楽譜上の音符によって、上がり下がりが階段状態で続くのではなく、抑揚に段差のない緩やかな坂道のように、またうねるように進行するのです。まさに「調べ」です。夫を捨ててその弟子、12歳年下の男性に走り、役場の係に談判して公文書を書き換えさせ………でも、本当に美しい歌であり曲です。そのギャップがすごい。おわり。

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万葉集シリーズ(2) 夫を防人(さきもり。国境防衛兵)として送り出す妻の歌

【防人に行くは誰(た)が背(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思ひもせず】(昔年防人妻)第二十巻4425番

妻・妹・愛する女性を妹(いも)、夫・兄 ・愛する男性を背(せ)と言います。「妹背を契る」など……。歌の意味は「防人として送り出されるのはどなたのご主人なの?」と、他人事のように尋ねる人が羨ましい……。

7世紀、朝鮮半島南端・百済に、日本は兵を派遣しましたが、白村江の海戦で惨敗しました。以後日本は、同半島経由による唐(中国)の追討軍の襲撃を恐れ、北九州沿岸に海岸防備の兵士を数千~数万規模で常駐させました。これが防人(さきもり)です。防人の兵士は主に北日本の農民であり、役人によって徴兵されました。武器と食料は自前で、3年の任期を終えた退役兵は、遠く関東・東北まで自らの足と費用で再度長旅を行うのですが、途中で野垂れ死にをする者が非常に多かったといわれます。だから、列島の北部から遥か西南方の防衛戦線まで夫を送り出す家族は、年代的には若妻と幼児たちが多かったはずで、夫の旅程の苦労を思いやり、残される自分たちの心細さに耐えて死別さえ覚悟の上での別れでした。万葉集には、防人周辺の歌がとても多いのです。

映画「二百三高地」の主題歌「防人の詩(うた)」(さだまさし)は、もはや映画を離れた独唱歌曲として聞く人の心に染み入る歌になっています。

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万葉集に拾う、皇子兄弟の三角関係!?

前回、万葉集のことをお話しし、「次回は実作品をいくつか……」と申しました。で、まず一つ。

【あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る】(額田王)第一巻20番

作者額田王(ぬかだのおおきみ)は、皇居内では作品歌の管理を任されていた歌人で、相当の美人 だったといいます。彼女は大海人皇子(後の天武天皇)の寵愛を受け、十市皇女を出産しますが、そのころから皇子の兄(中大兄皇子)で時の天智天皇が、額田王を寵愛する関係になります。当時の宮廷内など、だれが正規の夫で、正妻はだれ……などはかなりあいまいで、あるのは「男女関係」だけだったようです。で、上に書いた部分は、どう見ても三角関係ですよね。

春のある日、薬草を摘んだり鹿の若い角を狩る野遊びをされる天皇とそれに従う人々が、広がるいくつもの野原に散りました。天皇に仲を裂かれ、今天皇に従う額田王は、自分に向かって必死に袖を振るかつての夫(大海人皇子)を遥か彼方に認め、つぶやきます。「人目もあるこの野狩りの場なのに、あんなに手を振って……。いくつものご料地を巡っている野守(のもり。「野」を管理する役人)に見られはしないでしょうか」。

これには、皇子本人による「返歌」があります。

【紫(むらさき草)の匂へる妹(いも。男女の関係の中で、妹・妻・恋人などに当たる女性)を憎くあらば人妻ゆえに我恋ひめやも(大海人皇子)第一巻21番】

「もし貴女を憎いとさえ思えれば、今は人の妻である貴女を恋するなどあろうことか」ということですが、資料はこれだけで、このような関係が事実であったかどうかなど、最終的には今も謎です。まず、額田王が美人だったということからして何の根拠もなく、万葉の歌への想いから、後世の人々が作り上げた艶やかな想像の所産に違いないのです。

とにかく資料として残されているのはこの二首の歌だけで、これさえ、「こりゃ、野遊びの後の宴で披露された戯れ歌じゃないか」という意見が明治時代、学者の間から出され、それなりの信奉者もいて、研究者の中にもこれを支持する一団があると聞きます。

こんなことを、次回にも一つ二つ取り上げるつもりです。

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万葉集!

コロナが終息して教室が再開するまで、植物画よりも身辺雑記が中心になります。だから、「万葉集」!

手元にNHKブックス「万葉集」(300頁弱)があるのですが、これを買ったのが20何年か前です。本物は全20巻4500余首ですから、手持ちの本に載っている歌などは全体のほんの一部です。その中のほとんどは短歌なのですが、A4に書き写せば10行を軽く超える長歌など、内容はごちゃごちゃです。それを20年ぶりに取り出し、ネットから「主な万葉歌200首」を探し出してコピーし、今回また勉強を始めた次第です。

日本語がようやく形を成し、とはいえ、「新古今集」や近・現代の洗練された韻文、散文に比べれば、幼児の叫びや現況報告、感情説明にも似た純朴な表現、あるいは言葉の言い重ねなどが基調になっていて、芸術性を持った格調高い珠玉の作品集ではありません。だからこそ、防人やその妻、貴人の従者など、知識のない一般の平民による作出も可能であり、採取・掲載されているのです。記録された文字は、現代の学者さえ解読に手こずる「万葉仮名」、つまり漢字をタネにした「音」・「訓」ごちゃ混ぜの継ぎはぎ文になります。

しかし、それらが伝えてくれるのは、一部の歌人や宮廷人を除けば知も学もない古代人の、今の私たちと何も変わらない心と感情――素朴な叫びや言葉による感動、驚き、喜び、困惑、悲しみ、などなどの万華鏡です。

次回は、いくつかの作品に触れてみようかと思います。あ、植物画系でもないこんな記事あ、読んでいただけなくてもいいんです。決してお気になさらずに……。

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