美しいものを美しいと感じ、美しくないものを美しくないと感じること


植物画は、①正確であること、②原寸で描かれること、③背景には何も描かないこと……などが必要条件とされます。とすると、「美しく描かれていること」は、何の問題にもならないのでしょうか。

ここで申し上げている「美しい」とは、画面が彩(いろどり)豊かに咲き競う花で埋め尽くされているようなことではなく、当然のことながら土粒が絡む地下部分を「美しくない」とするものでもありません。となると、そもそも「美しい・美しくない」とはどういことなのでしょうか。

鮮やかに彩られた画面は確かに美しい、しかし同時に、光と漆黒が錯綜するモノクロの写真や木炭画にも美しさを感じる人は大勢います。それどころか…少し跳ぶのですが、アルファベットを含む難解な数式とその解答をつくづく眺め、なんと美しい……と絶句する一群の人々(数学者など)もいます。さらに、物語のプロットや人の行いに美しさを感じることも日常よく経験することです。

これら人の感情・感覚・感性の様々な端末部分に触れて流れて消えていく多様な状況が、その都度その人の心に何らかの跡を残してゆく……通り過ぎるさざ波のようなかすかな感動……マイナスの感動だったりプラスの感動だったりかもしれませんが、しかしそれでも、残された「跡」は同じなのに受ける人によって甘かったり辛かったり、何の感動も与えなかったり……。

で、ボクは今、植物画を描く上で求める「美しさ」について述べようとしているのですが、「美しい花が美しく描かれた画面」だけではない部分にも、「美しさ」はたくさん埋め込まれていることをお伝えしたいのです。たとえば濃淡・明暗などコントラストの美しさ、配置・粗密・軽重など構図の美しさ、色彩調和や配色の美しさ、さらに自然界の調和を「部分的に切り取った正確さ」が生み出す美しさ……などなど。

植物画の美しさにそれらが含まれることは多くの方々が認めながら、それらの評価や価値判断を自分で行うとなるともう一つ自信がない、判らないという人が多く見られます。ツルに下がるウリの実を、飛び飛びに隠すように覆う大きな葉の列があるとき、それを同じ色で同じように塗るのではなく、日が当たる部分、陰の部分、そのまた奥の位部分、さらに緑の濃淡など、現実のコントラストを大胆に取り込むことにより……、あるいはさらに、葉の一枚をわずかにずらし、葉隠れに覗く実の部分のバランスを変えることにより、同じ絵はもっとずっと美しく、面白くなるのですが……。

「センス」と言う言葉があります。服飾関係でよく使われるところですが、自分はその持ち合わせ(センス)がまったくない……と、人知れず悩んでいる人は多いかもしれません。何らかの理由で幼少期からこの分野に関心を寄せてきた人もいるでしょうし、古希を迎えて「無関心だった自分」を悔いる人もいるでしょう。両者の差は大きいでしょうが、比べる必要は全くありません。

相当の独断と偏見絡みでボクは断言するのですが、審美眼というのは生まれつきではなく、訓練で自己開発が可能な領域です。きらきらしたものと同じように地味なもの落ち着いた色のもの、特に複数の物の組み合わせ、それも色だけではなく形の組み合わせ、空間との組み合わせ、質感の組み合わせなど、画面一枚にさらなる「美」を加えることが可能です。

で、その訓練方法。①:まずそういう分野があることを認め、関心を持つ。②:デパートの服飾品売り場のマネキン人形の装いや、インテリア・料理・道具などのおしゃれな紹介写真など、美しい(はずの)ものをたくさん見る、見つめる。ところで「マネキン人形の装い」ですが、はじめボクは、それなりの見識を持った専門の担当者が、売り場を回って着せて歩くのかと思っていたのですが、実は売り場に就く販売担当スタッフが考え、相談して決めるところが多いそうです。みなさん、相当のセンスを持った方々なんだなあと驚きました。

さらに③:「構図」「色彩調和」など個々のテーマで、図書館やネットなどで勉強する。④:作品でも人形でも写真でも、あ、いいな、美しいなと感じたものに対して、そう感じさせるのはどこの部分なのか、何が理由なのかを探し出す。⑤:上の①~④を、普段の生活姿勢として行動に取り込み、ずっと続ける。

最後に……。形、複数の色彩の組み合わせ、明暗などさまざまの領域を例に挙げましたが、美の領域をことさらに区分する必要はないと思います。美しいものは花でも数式でも領域を劃する必要はなく、みんな「美しい」「きれいだ」というつぶやきで表現できるようなものだと思います。

うまく伝えられたかどうか自信はないのですが、今後ときどき、「この方がもっと美しい」とか、「これでは美しくなくなる」みたいなことが説明として出てくるかもしれません。

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