名曲・平城山(ならやま)


「万葉集」ではありません。今回は、現代歌曲と「古事記」(!)のコラボです。これ、名曲です。え? 過去の記事との一貫性?……継続性? ボク……そういうのが苦手なんです。いえ、いえいえいえ、すぐまた戻ります「万葉集」に、たぶん、きっと。

まず歌詞。「①人恋うは悲しきものと平城山に もとおり来つつ耐えがたかりき ②古(いにしえ)も妻に恋いつつ越えしとう(そういう話だ)平城山の径に 涙落としぬ」。現代歌人北見志保子の作品二首が使われています。作曲は平井康三郎。

ここからがすごい。志保子の夫・橋田東聲も歌人で、弟子を抱えていた。そこで、妻・志保子は夫の許に通う弟子のひとり浜忠次郎に熱烈な恋をするのです。浜は、後に千代田生命保険の社長になる人で、志保子より十二歳年下!でした。与謝野晶子などのことも思い合せると、日本の女流歌人は情が激しいでしょうか。周辺は燃え上がった二人を心配し、浜をフランスに送り出します。歌詞の①は、このころのことと想定されるようです。

ところが遠く離されてもほとぼりは冷めず、それどころか想いはさらに激しさを増します。浜が渡仏中、橋田夫妻は協議を重ね、結局離婚に至り、志保子は帰国した浜と結婚します。

ところでこの結婚に際して、志保子はもう一つものすごいことを仕出かすのです。彼女は明治十八年生まれですが、村の戸籍係に頼み込んで、「十」の上に「二」を書き足し、「明治二十八年生まれ」に改竄(かいざん)するのです。ウソのようですが、資料にはそう書いてあります。これにより、新郎より十二歳年上の自己をわずか二歳年上と偽ることに成功ました。

ところで、②の歌中の「いにしえ」とは、古事記に見える西暦500年のころです。仁徳天皇は嫉妬深い妻・盤之命が紀ノ國に旅している留守に、遠縁の八田皇女を宮中に迎えた。これを知った盤之命は激怒し、夫の許には帰らないまま実家に新宮を建てて引き籠りました。夫・仁徳天皇は自ら妻を訪れて説得も試みましたが妻は応じません。これが歌詞の②に想定されるのでしょうが、当時、「夫」と書き「妻」と書いて双方ともに「つま」と読ませたことも絡み、「ツマに恋つつ越えたと伝わる……」の部分が、夫が妻を慕ったのか、妻が夫を慕ったのかが曖昧に思え、解釈も混乱しているようです。

とにかく妻は夫の説得に応じることはなく、生涯をそこで終えます。その没後、妾の八田皇女はようやく皇后になったのです。

もう一つお伝えしたいことがあります。この歌はとにかく美しい。「ほかに比べるものもない名曲」という表現も、ネットの投稿にありました。ボクも同じ感想を持つものですが、その理由としてもう一つ、作曲の形式が挙げられるそうです。

作曲は明治以降、つまり現代なのですが、使われている形は平安・鎌倉期に流行った「今様(いまよう)」、つまり当時の視点で見た「現代風=その当時風の調べ」であり、宮廷に伝わる雅楽などに雰囲気が伝えられているものです。具体的に言えば、現代の曲のように楽譜上の音符によって、上がり下がりが階段状態で続くのではなく、抑揚に段差のない緩やかな坂道のように、またうねるように進行するのです。まさに「調べ」です。夫を捨ててその弟子、12歳年下の男性に走り、役場の係に談判して公文書を書き換えさせ………でも、本当に美しい歌であり曲です。そのギャップがすごい。おわり。

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